Killswitch Engage
Media PlayeR
ツアー日程
バンドメンバー
Howard Jones
Adam Dutkiewitz
Joel Stroetzel
Mike D'Antonio
Justin Foley

ニューヨークに根付くハードコアと、北欧に代表されるメロディック・デスを大胆にクロスオーヴァーさせたサウンドで、90年代にマサチューセッツのシーンをリードしてきたバンドがAFTeRSHOCKOVERCAST。そのOVERCASTのマイク・ダントニオ(B)と、AFTeRSHOCKのアダム・デュトキエヴィッチ(G)の出会いこそ、キルスウィッチ・エンゲイジの歴史が幕を開けた瞬間であった。同時期に解散してしまったこの二つのバンドのメンバーを中心に、AFTeRSHOCKのメンバーであるジョエル・ストローゼルをギターに、さらに元CORRINNOTHING STAYS GOLDのジェシー・リーチ(V)を迎え入れ、AFTeRSHOCKではギターを弾いていたアダムがドラムを担当するという4人編成でキルスウィッチ・エンゲイジが誕生、地元を中心に精力的にライヴ活動を行うようになる。2000年、USのインディ・レーベル、FERRET RECORDSよりファースト・アルバムとなる『KILLSWITCH ENGAGE』を発表、インディーズでのリリースながらその”スーパー・バンド”の噂は瞬く間に広がり、翌年2001年にはバンドはロードランナーと契約、デビュー・アルバムの制作に取りかかる。バークリー音楽院出身のアダム自らがプロデュースを担当(レコーディングでアダムはドラムのみならず元々本職であったギターもプレイしている)して出来あがった彼らにとってセカンド・アルバムである『ALIVE OR JUST BREATHING』を2002年6月に発表、ニュースクール・ハードコアをベースにしながらも、時折垣間見せる叙情的なメロディやギターのフレーズ、怒号の嵐など独自のアグレッシヴネスに満ち溢れた表情豊かなラウド・ミュージックを構築し、英Kerrang!誌では最高の評価5Kを獲得、また米CMJラウド・ロック・チャートでは4週連続1位を獲得するなど各方面で軒並み大好評を博し、デビュー・アルバムにして最高のスタートを切ることとなる。

このアルバム制作後に、ライヴでの楽曲の再限度を強化させるためアダムがギターに復帰、ドラムにジョエルと同様AFTeRSHOCK解散時のメンバーであったトム・ゴメスを加入させ、5人編成として新たなスタートを切った彼らは、アルバム・リリースに前後して数回に渡る全米ツアーを実施、CONVERGESHADOWS FALLなどのニュースクール/カオティック・ハードコア・バンドらとツアーを共にする一方、IN FLAMESSOILWORKといったスウェーデン出身のメロディック・デス・メタル系のバンドともツアーをするなど、まさにハードコア/メタルの垣根を遥かに飛び越えた活躍を見せる。すべてが順風満帆のデビューと思われたが、アルバム発売直後の7月にヴォーカルのジェシーが個人的な事情を理由に突如脱退、新たにBLOOD HAS BEEN SHEDのヴォーカリストであるハワード・ジョーンズを迎え入れ、7月に行われたHELLFESTを皮切りにヨーロッパ・ツアー、そして日本のBEAST FEAST 2002にも参加するなど、世界規模でのツアーを続けて行く。年明けには早くも2度目の来日公演(Extreme the DOJO vol. 6)を行った彼らはその後も大躍進を続け、2003年のOZZFESTでは全米のキッズを熱狂の渦に巻き込んだ凄まじいパフォーマンスを見せつけた。その度重なるツアーと圧倒的な楽曲&パフォーマンスで一気に人気を爆発させ、ニュー・ジェネレイション・メタル勢の中では初となる全米で10万枚セールスを突破するという記録を打ち立てる。

その後ドラマーであったトム・ゴメスがバンドを脱退、新たにハワードのバンド・メイトでもあったジャスティ・フォリー(BLOOD HAS BEEN SHED)をドラマーとして迎え入れて2004年に発表されたアルバム『THE END OF HEARTACHE』では、ビルボード・チャート初登場21位を記録、その存在感を更に大きなものと進化させていく。今作をサポートすべくバンドは凄まじい量のツアーを実施、中でも2004年のSLAYERとの全米ツアー、2005年夏のOZZFESTでのセカンド・ステージのヘッドライン出演はハイライトと言えるべきツアーであるが、MY CHEMICAL ROMANCEらとのTASTE OF CHAOS TOUR(このツアーではほぼ同じラインナップで来日公演も行っている)、Extreme the DOJO vol. 10 Specialへの参戦と、数々のフェスティヴァルへも出演、最終的にアルバムは全世界で50万枚を超えるセールスを記録する。またアルバムからの楽曲「ジ・エンド・オヴ・ハートエイク」が映画『バイオハザードII』で楽曲がメイン・テーマとして使用されたり、ニュー・ジェネレイション・メタル勢としては初となるグラミー賞ノミネートという輝かしい記録も打ちたて、シーンの中心的バンドとしての地位を不動のものとした。

2006年に入り、しばらくオフを取ったバンドは同年春からレコーディングをスタートさせ、彼らにとって4作目となる前作『AS DAYLIGHT DIES』を06年11月に発表(アルバム発売直前にはLOUD PARK 06参戦のため5度目の来日公演を行っている)、ビルボード・チャート32位を記録する。アルバム発表後も強靭なツアーを続けるが、アダムの持病である腰の痛みが悪化したため、07年初頭に予定されていたツアーをキャンセルしたり、その後もSOILWORKのピーター・ウィッチャーズやDAMAGEPLANのパトリック・ラックマンに代役を依頼しつつツアーを続けていたのだが、アダムの病状が回復すると彼はバンドに復帰、過酷なツアーを続けていく。まずは全米ヘッドライン・ツアーをDRAGONFORCECHIMAIRAらと回り、その後ヨーロッパのフェスティヴァル、WARPED TOURへの参戦、秋にはLAMB OF GODとのコ・ヘッドライン・ツアー、2008年初頭のSOUND WAVE FESTIVALツアーへの参戦、6月には6度目にして初の日本ヘッドライン・ツアーを行うなど、世界中に怒涛の攻勢をしかけていった。

08年10月から彼らはバンド史上初となる外部プロデューサー、ブレンダン・オブライエンを迎えて新作のレコーディングを開始、ある程度完成したところで早くもDISTURBEDと共にMUSIC AS A WEAPON TOURをスタートさせ、その後もMAYHEM TOURでSLAYERと一緒に全米をサーキットする事も決定している。ツアーの合間をぬってレコーディングを続けていき、ようやく完成した全世界待望の最新作、最強の作品が遂に発表される…。

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